『ただの整備工場じゃない「車のかかりつけ医」として墨田区の移動を守る』株式会社松田自動車整備工場 代表取締役 松田 翔様インタビュー

株式会社松田自動車整備工場
代表取締役 松田 翔様


――はじめに、松田自動車整備工場さまについて教えてください

現在の弊社の事業は大きく分けると4つあります。1つ目が「民間の車検事業」。みなさんお馴染みの車検作業整備です。2つ目が「事故対応事業」。鈑金塗装、外装の修理ですね。3つ目が「車の販売事業」。新車・中古車ともに車両も販売しています。4つ目が「レンタカー事業」。これは2017年からスタートした新しいサービスです。

年商は2018年が2億2000万円ほどで社員数は役員2名含めて16名)です。


――創業からの事業展開を教えていただけますか

始まりは64年前。祖父が押上でマツダモータースという自動車整備会社を創業しました。

車の整備という仕事は、医療で例えると内科的処置です。機能的な部分の点検とか修理、あとはその車が公道で走っていいかどうかの点検など。車が健康であることは、利用者の命を守ることになりますから。そんな思いをもって開業したと聞いています。

その後、今の新社屋に場所を移してから、車両販売も始めました。一時期はサブディーラーと呼ばれる日産の代理店もやっていたようですね。整備と車両販売を伸ばしつつ、37年前に先代である父が鈑金塗装、事故対応部門を立ち上げました。祖父は2001年に亡くなって、父が2代目社長になります。

私が入社したのが2013年ですね。その2年後の2015年に父が亡くなりました。急死でした。それで私が3代目になるのですが、少しずつ落ち着き始めた2年後の2017年にレンタカー事業を始め、現在に至るという流れですね。


――転機があるとしたら、どこだったと思いますか?

2代目の父の代で、鈑金塗装業を手掛けたのが大きな転機だったんじゃないでしょうか。それまでの弊社は、時代背景としてはバブル景気などもありましたが、ウチはずっと過剰投資をせず、堅実に経営していたそうです。そのような中、父は車の「内科」だけでなく、「外科」的なこともやらなくちゃいけないと考え、鈑金塗装事業を始めました。

車検整備事業と鈑金塗装事業は、両者とも「自動車を直す」ことには変わりませんが、技術も知識も全く異なる分野です。その時は、協力会社さんにお願いしていたのですが、実際に先代の2代目が外装を立ち上げるとなった際に、依頼していた会社の方から「一緒にやらせてくれないか」ということで立ち上げたというのが鈑金塗装事業の始まりです。まわりの方の支えがあってのことであり、会社にとっては新しい挑戦でもあった、非常に大きな出来事だったと思います。


――ここまで順調にこられている中、会社の強みはどこだと思われますか

自信を持ってお答えできるのは「技術」ですね。具体的に申しますと、人間でいうとことの「内科」である車両整備と、人間でいうところの「外科」である鈑金塗装・事故対応の両方を扱える工場というのが墨田区内では弊社しかないんですよ。

他社では受付窓口は持っているけれど、工場は協力会社さんであったり、地方に持っていたりとかという会社ばかりです。墨田区という下町の中で、ここまで近接したかたちで工場を持ってかつ高い技術力で自信を持ってお客様対応できるというところが弊社の強みになっています。

お客様からすると、メーカー問わず、新車旧車問わず、松田整備工場に任せればなんでも直るわけですから。それを地域密着でやっていますので、ご安心いただけるのではないでしょうか。そういうことで、先代は「車のかかりつけ医」というキャッチコピーで業務展開しておりました。私はこの言葉がとても気に入っています。


――経営理念について、教えていただけますか

『私が移動を守り、新しい移動を作る。』です。経営理念に『私が』と入っているのは珍しいと思うのですが、ここには強い想いがあります。

弊社は今まで「トップダウンのイメージが非常に強い会社」でした。表に立つのは、いつもトップだったんですね。しかし、今の時代、職人だからお客様対応しなくていいというのは通用しませんよね。

困っているお客様がいらっしゃった時には、作業を1回止めてでも、ちゃんとご挨拶をして、お客様が何に困っているかを自分から聞いて対応する。そのように各自が自分から動いていかないと、自動車業界ではこれから生き残っていけません。お客様に選んでもらえなくなりますからね。そのため、『私が』と強く自立、1人ひとりの当事者意識を促すような言葉にしたかったんです。

『移動』についてですが、車はやはり何かを運ぶためのものなんです。「物」と「人」、基本的にはこの2つです。例えば「物」に関しては、今はネット通販が当たり前になっていますが、物は勝手に届きません。そこでは自動車が使われていて、その自動車をお仕事に活用している方々がいるわけです。その車が止まってしまったら、その方は仕事ができなくなってしまい、生活に影響が出てくるかもしれません。そういった意味で、物を運ぶためのものを守るということで重要と考えています。

次に「人」についてですね。高齢者が非常に多くなった社会、介護系の会社もたくさん増えてるかと思うんですけれど、それこそ車が壊れて送迎できなかっただけ一大事になります。ですから、そこをきちんと守っていこうよという想いがあります。それは、大きく言えば、家族を守ることでもありますよね。お客様の仕事や生活を考えながら、今、目の前にある何かしらの点検とか故障とか内装の修理を取り組んでいく。そこには、『移動を守ろう』という私なりの想いがあります。

例えば、お客様が事故を起こしてしまったとします。車の前の部分をぶつけてしまった際に、弊社はもちろんそこは直すのですが、直す際に1000円でも2000円でもいいのでバンパーポールという、ちょっと見やすくなるものをご提案させていいただくことがあります。お客様にとってプラスになる車に関する新しいご提案をさせていただくのです。お客様が今後同じような事故に遭わないためのご提案ですね。

故障の時も同様です。どうして故障が起きたのか?乗り方なのか?環境なのか?とか、そこまで考えて、故障を直した後に、何をご提案できるのかということですね。お客様の普段の移動をちょっとずつ新しく変えていこうというような意味を理念に込めています。


――事業承継についてお聞きします。松田社長は子どもの頃から「家業を継ぐ」という意識はお持ちでしたか?

あったみたいですね。子どもの頃の文集に、『車屋さんになる』という言葉が書いてあるのをこの前発見し、自分でも『そうだったんだ』と思い返しました(笑)。

ただ、中学生になってから興味が大きくズレていったんですよ。当時、人生ゲームが流行っていて、お金が儲かるのは医者とか弁護士だとインプットされたんです。そこから、弁護士になりたいという夢が出てきました。高校に入ってからは、今度は何も考えなくなってしまいました(笑)。

大学は理系だったんですが、選んだ理由も「就職に困らなさそうだから」です。実際に就職活動をする際には、そこでも明確にやりたいものというのがなかったんですけれど、漠然と「成長したい」とか、「何か事業をやってみたいな」とか、そんな気持ちでした。そこで、いろいろな会社を見ることができる、人にフォーカスを当てた中途採用支援をしている会社に入社。3年半ほどいましたね。リーマンショック後に入社して、しかも新規開拓の部署でしたのでかなり忙しく働いていました。

そんな中で、ふと将来を考えた時に、なにか自分の目指す方向性と違うなと感じるようになったのです。そこで改めて、「私はどんな生き方をしたいか?」と考えた結果、家業が一番私の想像しやすい将来だったんです。そこで、私から「入らせてください」とお願いをしました。


――そうして入社された後のお仕事のこと、先代であるお父様とのご関係の変化について教えてください

仕事を全て覚えたいという気持ちがあり、まずは整備事業の方で現場をやりました。期間は1年弱くらいですね。知識とか技術とかもゼロベースでのスタートです。その後、鈑金塗装の現場の仕事をやらせていただいて、それも1年ちょっとやったかな。どちらも奥が深い分野なので全然一人前にはなれませんでしたが、上面を学んだ感じですね。次にフロント業務ということで、見積り作成等の作業を先代に教えてもらいました。

父は、仕事とプライベートでは、まったくイメージが違う人でしたね。プライベートではどうしようもない話はいくらでもよく喋る人だったんですが、真面目な話はあまりしないタイプ。家ではまったく仕事の話はしませんでしたね。逆に、仕事中はとにかく真面目で、口数はとにかく少なかったです。

父の教育スタイルは放任主義でした。若い頃に夜遊びをしてたら、もちろん言うことは言いますけれど、たぶん一般的な家庭よりも全然緩かったと思います。好きなようにやれ。習い事もやりたいならやれ、と。自分で選択しなさいというのが父の方針でした。そこは仕事でも一緒でしたね。

私の意思を尊重しながらやれというようなカタチで仕事をさせていただいていました。基本的に和手氏はガンガンいろいろなことを言うほうなので、父が「どうだ。俺はここまでの会社にしたんだぞ」と冗談交じりで言うと、「いや、全然ダメだよね」とズバッと言ってしまうんです。「ここ駄目、ここ駄目」と(笑)。父は、そこも受け入れてくれました。

「もし変えられるんだったら、お前やってみろよ」みたいなカタチでやらせていただきました。そういう意味で、先代との確執はまったくなかったです。非常にやりやすかったですね。また、仕事を始めてから、父がまわりからとても慕われているんだということが分かりました。


――実際に事業承継された時のことを教えてください

父が突然亡くなってしまうところから始まりますね。休みの日で、私が資格の講習を受けていたところ、弟から電話を受けました。「警察から電話があって、お父さんが倒れた」と。急いで帰りました。話を聞くと心臓発作で亡くなってしまったと。そこから急に継ぐという形になってしまいました。

いざ社長になると、さまざまな問題と直面します。自分は実務の一部をやっていたに過ぎないことに気づかされました。「問題があっても自分が解決するぞ」という覚悟が足りていなかったんですね。

同時、整備のほうを叔父が、鈑金塗装のほうは父が責任者としてやっていました。なので、まずは責任者不在の鈑金塗装を回すことを最優先に考えました。鈑金塗装でお客様に迷惑を掛けないように、仕事を覚えながらがむしゃらに仕事をしました。それまで未経験のことを毎回0から10までくり返していた感じです。


――一つひとつクリアされてきたと思いますが、一番大きな課題とそれに対しての取り組みを教えてください

やはり人の問題ですね。いい人材に会社に居続けてもらうことです。会社としての大黒柱がいなくなった際に、当時は僕が一番下で皆さん年上なんです。平均年齢が45歳とかなので、そういった先輩もいる会社で代表させていただく中で、皆さんについてきてもらうためにはどうすべきかと考えると、お客様からの評価をいただき、私が働いて認めてもらうしかないと思いました。

ですから、先ほど申しましたとおり、まずは仕事を見つけるところから始め、その仕事をきちんと終わらせて、ご入金いただけるまで、とにかく必死に頑張りました。その結果、現場の皆さんから認めてもらえるようになったと思います。

次にトップダウンの体質を変えようと取り組みました。父は年上で職人歴の長い社長でしたが、私は経験も知識もない年下です。ある程度認めてはくれていても、求心力は父には及びません。だから、リーダーに引っ張ってもらうマインドは変えていかなければいけないと思いました。

本当に細かいところからの改革だったのですが、それまでお客様のことに関して、整備の場合はウチの専務で、鈑金塗装は社長しか把握できていませんでした。そこで、一覧表を作って全員で共有できるように。そういった仕事の業務方法からちょっとずつちょっとずつ変えていき、一人ひとりがお客様と向き合っているという当事者意識を築いていったというところでしょうか。


――最後に、今後の展開や構想について教えてください

数値目標でいうと、2030年までに売上10億円を目指しています。また事業に関しては、弊社の既存の事業が今後爆発的に伸びるかというと正直厳しいと考えています。車に関して言えば、墨田区の地域密着型でやっていく中で墨田区の車の保有台数が年々下がってきています。市場がどんどん小さくなってくるということです。そこで、新規事業の強化が今後の弊社のキーになると考えています。

車を持たない人が多くなってきているんですね。マイカーを持っている人も手放し始めています。とはいえ、車のニーズはあるのです。そういうことで、レンタカー事業を立ち上げました。ちょうど先代の父が亡くなった翌年が申年だったんです。申、酉、犬と来ています。ある時に、神社の宮司さんから「松田さん大変ですね。でも今はいい年ですよ。申で考えて、酉で状況を改めて把握して、戌で実行する。3年間ですね」と。さらに2019年は猪の年です。土台は固まったので、猪突猛進でまっすぐ進んでいき、墨田区全域に広めていきたいです。今後も干支を絡めて目標を共有していきたいと考えてます。

あとは、墨田区で頑張っている整備工場にレンタカーをフランチャイズ化できるといいなと考えています。認証工場は、実はコンビニや歯医者さんと同じぐらいの数があるんです。認証工場に、有名フランチャイズのレンタカー会社よりも導入しやすいかたちでやっていきたいですね。

それと、車両のリースですね。車をシェアする時代じゃないですか。リースにも注力していきたいなと思っています。テーマは地域限定です。墨田区の松田自動車のリースだから、何か困ったらすぐ持ち込めばいというという使いやすさで優位性が生みたいですね。

また、タイヤチェンジャーも事業化しましたので、こちらも利益がでる体制を作り、後々はレンタカー事業と一緒にして別会社として立ち上げたいです。

<インタビュー情報>
株式会社松田自動車整備工場
代表取締役 松田 翔 http://matsuda-motors.com/

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