お客様に感動をお届けすることに情熱を燃やすエンジョイ・カンパニー

2018-10-19 16:00
2代目経営者インタビュー

アサヒ・ドリーム・クリエイト株式会社
代表取締役 橋本 英雄


――アサヒ・ドリーム・クリエイト株式会社について教えてください

 アサヒ・ドリーム・クリエイトの歴史は、高度経済成長期の1963年から始まります。私の父が印刷物の表面加工業として創業し、その3年後1966年にアサヒ・ドリーム・クリエイトの前身となる朝日化工紙を設立しました。印刷物の上にツヤ出しのニスを塗ったり、フィルムを貼る表面加工が主な業務の会社です。

 1970~1980年代は、店頭での広告・販促物のニーズが高まってきた時期でした。そこで、印刷物表面加工に加え、販促パネルの芯材となるスチレンボードの加工販売も行なうようになり、徐々に事業を拡大していったのです。

 1990年代半ば頃になると、スチレンボードの加工で培ってきた技術やノウハウを活かして、印刷物の表面加工から販売促進用POP制作に主力事業を転換。それは今日まで変わらず、現在は店舗の販促POPやディスプレイ制作、ウェブではホームページや動画制作など、お客様の販売促進支援の事業をメインに展開しています。

 販促物を制作する事業の中で私たちが一番意識しているのは、お客様の増益支援をすること。売上げがアップすることももちろん大切ですが、お客様の利益を増すことを重視しています。お客様の商品やサービスの真の価値を一緒に発見して、それを社会へ伝えるためのお手伝いをすることが、アサヒ・ドリーム・クリエイトの使命です。これを一言で「真価発伝」と表現しています。

 また、数年前から、商品やサービスが「誰に、どんないいことがあり、どんな体験をしてほしいか」を表現する「コトマーケティング」の考え方を取り入れたコンサルティング・セミナー事業や、販促POPの企画やデザインを提供する店舗活性化企画デザイン事業も始めました。事業の在り方を受注型から提案型への転換を進めているところです。


――今の橋本社長を形成した、幼少期の体験などはありますか?

 子どもの頃、日曜日はよく父の会社の手伝いに連れていかれていましたね。父の口癖は、「努力することが一番大事だ。才能はなくても他人の三倍は努力しろ」。幼少期に父から教えられた言葉がベースになり、日々努力する習慣が身についたのではないかと、今振り返ると思います。

私はいわゆる性格的にガキ大将タイプで、いつの間にか集団の中心にいるような子どもでしたね。ただ、小学校5年生の時に自分本位になりすぎてしまい、周りから集団で無視される事態に陥ってしまいまして。その時に、自分のことしか考えていなかったことを反省し、皆の言うことに耳を傾けることを意識するようになりました。

中学に入ってからもずっと学級代表を務めていたのですが、ちょうど私の世代はスクールウォーズ世代といって窓ガラスが割られるなど学校がものすごく荒れていた時代だったんですね。私のクラスにもいわゆる不良と言われる生徒が4人いて、授業が始まって5分もすると教室を出ていってしまうんです。

担任の先生から言われて彼らを呼び戻してくるのが私の役割でした。しかし、呼び戻しに行っても当然帰ってきてくれません。どれだけ言っても帰ってきてくれいなので、しばらくの間は彼らの話を聞くことに徹しました。

すると、次第に家庭環境のことなど色んなことを話してくれるようになったんです。教室の外での会話を通して彼らと関係性を構築することができ、2ヵ月が経った頃には私の言うことをきいて授業に戻ってもらうことができました。私自身も授業に出られなかったので成績はガタッと落ちてしまいましたが(笑)、目線を合わせて話を聞くことの大切さを彼らから教えてもらったように思います。


――子どもの頃からリーダーとしての資質を養ってこられたのですね

幼少期から学生時代に経験してきたことが全て今に繫がっていると思います。また、小学生の頃から大学までずっと野球を続けてきたことも大きな財産ですね。

高校時代は真剣に甲子園を目指していたのですが、進学校だったので夜遅くまで勉強をして朝早くから野球の練習をするような毎日で、ずっと睡眠不足の状態でした。そんな生活を続けていたため、高校3年生の夏、ショートとして背番号をもらうことができたものの、レギュラーにようやくなれたと思った矢先、練習中に熱中症で倒れてしまったんです。

結局試合にはまったく出られず、チームにも迷惑をかけてしまいました。トーナメントも5回戦で敗退してしまうことに。その時は本当に悔しかったですね。どれだけ頑張っていても倒れてしまっては意味がないと痛感しました。

高校野球での失敗を教訓にして、私は社会人として働き始めてから今日まで体調を崩して会社を休んだことは1日もありません。楽しみながら仕事をすることで疲れを溜めないようなクセが身についているのだと思います。

大学に進学してからも体育会系の準硬式野球部に入部し、大学4年生の時にはキャプテンを務めせてもらいました。その時に掲げたスローガンが「エンジョイ・ベースボール」。

野球を楽しんで、得点が入ったら皆で盛り上がり、励まし合って勝つチームを作ろうと思ったんです。部活を引退する際の追い出しコンパで、下級生から「エンジョイ・ベースボール最高!凄く楽しかったです!」と言われたのは、本当に嬉しかったですね。

ちなみに、この「エンジョイ・ベースボール」というスローガンが、現在のアサヒ・ドリーム・クリエイトの経営理念「エンジョイ・カンパニー」に繫がっています。


――御社の経営理念について詳しく教えていただけますか?

「エンジョイ・カンパニー」という経営理念は、私が社長に就任してから作ったものです。ここには、「社員が自己成長することでお客様に感動を届け、その結果として会社が信頼と利益を得る」、そんなバランスの取れた「ハッピートライアングル」を形成することを目指すという思いが込められています。

大学野球時代のスローガン「エンジョイ・ベースボール」と、大学卒業後に就職したリクルートで学んだ「ハッピートライアングル」の考え方がベースとなって、この理念に至りました。

私が最初に一人で考えた時は、「お客様が満足し、社員が成長し、会社が利益を得る」という文面だったのですが、社員と一緒になって考え、「お客様満足」が「感動」に変わり、「社員の成長」が一番上に来たりと、何度か改訂を重ねて現在の形になっています。

社員たちにも当事者として関わってもらい、理念の実現を自分たちの目標として捉えてもらえるよう、各部門のリーダーを中心に社員と一緒に理念の改訂を考えるようにしているんです。経営理念を記載した手帳型の経営計画書を全社員が携帯して、毎日の朝礼では必ず理念の唱和を行なっています。

理念経営を推進しているのは、父から継いだ会社を継続させていくことを第一義に考えているからです。振り返ってみると、先代の父の時代は、先代にしかできないことが多い組織だったように思います。

創業者から二代目の私に代わっても、さらに言えば現社長の私がいなくても会社が継続できる仕組みが必要だと感じていたんですね。理念を中心にして集まった組織であれば、トップが誰であっても会社は成長し、継続していくことができるはず。そのため、会社の中で一番偉いのは社長の私ではなく理念だと言い切っています。


――リクルート就職後、お父様の会社に戻って二代目として後を継がれるまでの経緯はどうだったんですか?

大学を卒業後、リクルートで4年間働かせていただきました。その頃、ちょうどバブルが崩壊した後で、父の経営していた会社の業績が急激に悪化していたんです。母から「会社の業績も悪く、父が体調を崩してしまったので手伝ってほしい」と連絡があり、1996年に後を継ぐことを前提に父の会社に戻ってくることを決めました。

入社してから担当したのは営業職です。主に新規顧客開拓を担当していました。その傍ら、当時の主力事業だった印刷物の表面加工から販促用POPやディスプレイの制作・加工への事業転換を手がけます。

ところが事業転換への道は険しく、行動スローガンとして掲げている「チャンス&トライアル」の精神で数多くの挑戦と失敗を繰り返しました。それを乗り越えてきたことは、何ものにも代えがたい経験だと思っています。最短距離を歩んできたのでは養われない目利き力などビジネス感覚が身につきましたね。

代表を交代して二代目として私が社長に就任したのは2004年、私が36歳の時です。本当はその1年前、父が70歳の時に継ぐ予定だったのですが、業績が芳しくなったこともあり承継の時期が延びてしまったという経緯があります。

会社を継ぐキッカケは、知り合いの経営者の方から「橋本さんが社長にならないと会社は変わらないよ」とアドバイスをいただいたこと。その方に勧められて参加したセミナー合宿で「今自分が一番不合理だと思う行動をしなさい」という課題が出たんです。私の中でその時に一番不合理だと思うことは、私自身がすぐに社長になるということでした。

すぐ父に電話をして「社長をやらせてほしい」と伝えると、急な申し出に父は驚いていた様子で当然反対されました。「まだ経営がこんな状態じゃダメだ」と。それでも私の決意を汲んでもらい、その1ヵ月後に代表を交代することになりました。

本当の意味で社長としての覚悟が決まったのは、承継して約3ヵ月後に会社の借金の連帯保証人として判子を押した時ですね。当時5億円くらい借金があったのですが、それまではどこか「父親が作った借金だから」という甘えが自分の中にありました。

今考えてみると、その甘えがあった頃は自分なりには一生懸命やっていたつもりでも、大きな成果に繫がっていなかったように思います。会社の全責任は経営者である自分が負うと腹を括ったことで、同じことをやるのでもトコトン深掘りするようになりましたね。


――想定より早い承継でしたが、事業承継はスムーズにいきましたか?

父との対立がありましたね。父は鬼軍曹のような厳しい社長だったので、社長が黒と言えば白いものでもみんな黒と言うような組織でした。当然私に対しても厳しかったですし、工場の中も常に怒声が飛び交っているような状態。職人でもあった父は、仕事も全部手本を見せて、背中でみんなを引っ張っていくタイプのリーダーだったんです。

私が社長に就任してからも、新しく採用した社員を会長の父が厳しく指導したことで辞めてしまうということが度々ありました。「今はそういう時代じゃないから褒めて育てるようにしてほしい」と言ったこともあったのですが、そんな甘い考えでは人は育たないという信念を持っている人だったので、何度もぶつかりましたね。社長になって3年間はツートップ体制の中で父と衝突の連続でした。

そんな状況の中、私が採用した若い社員から「この会社には未来がないから辞めたい」と言われてしまったんです。会長と社長が言い合いをしているような会社では、そう思われても仕方ありません。そのことがキッカケとなり、「会社のことはもう任せてほしい。明日から会社に来ないでくれ」と会長にハッキリと伝えました。

会長は「俺が来なくなったら2週間でこの会社は潰れるぞ」と言っていましたが、最終的には私の考えを尊重してくれて、それからは一切会社に顔を出さなくなりました。今でもずっと心配はしていると思いますし、私のやり方は甘いと怒られることもあります。それでも、私がハッキリと意思を伝えたことで完全にバトンタッチしてもらうことができました。


――事業を引き継がれてからは、いかがでしたか?

厳しい先代の下で残ってくれた社員ばかりだったので、社長が私に交代してからも素直に従ってくれる社員は多かったです。しかし、強烈な先代が作り上げた組織の風土を作り直すのは簡単ではありませんでした。

父は全部やることを指示するタイプ、私は社員に自分で考えさせるタイプなんです。指示がなければ動けないような組織から、社員一人ひとりが自ら考えて動くことができる組織にしなければならないという思いがありました。

先代には厳しく怒られるので精神的にはキツイですが、自分で考えて実行に移せという私の方が本当の意味で厳しいと思っています。社員たちに私の考え方が浸透して、組織の風土が変わるまでにはかなりの時間がかかりました。

個人目標やチーム目標なども個別に設定することで、以前は2週間先にどんな仕事があるか誰も分かっていない組織でしたが、計画を立てて目標に向けて取り組むことができる組織に徐々に変わってきています。

また、風土改革の一環として、品質管理委員会や安全委員会、環境整備委員会、ありがとうプロジェクトなど、幾つもの委員会やプロジェクトを設けて、社員は部署とは別に必ずどこかのプロジェクトに参加するようにしています。

環境整備として工場をキレイにしてショールーム化しようという活動を行なったり、コミュニケーションの強化を目的に「おおきにカード」という社員同士が称賛し合う制度も設けました。そういった活動を続けていく中で新しい風土が育まれていっています。

Googleが発表した「心理的な安全性を高めることでチームとしての生産性を高めることができる」というのは、本当にそうだと実感しています。定期的に社員同士が意見を交わせる機会を作ったり、お互いが自然体で何でも言える関係性を作ったりすることが何よりも大切だと思いますね。


――最後に、これからの展望について教えてください

お客様の増益支援と真価発伝、今後もこれを徹底していきたいですね。具体的な事業内容としては店舗とウェブの販促ツール制作事業を中心に、「コトマーケティング」の手法を活かしたコンサルティング事業にも更に注力していきます。

国内事業に加えて海外事業にも着手しているところです。日本のマーケットは今後人口の減少に伴って必ず縮小していくので、海外の市場を視野に入れていかなければなりません。4年前にフィリピンに印刷ショップを出店したのですが、これから更に拡大していくつもりです。

また、事業内容だけではなく人間力で差別化できる会社を作りたいと思っています。「あなただから頼む」と言われるような社員がたくさんいる会社にしたいんです。そうなれば、どんな時代になっても成長していける会社になるはずです。自然とお客様から要望が集まってきて、それを一生懸命解決に繋げていく、そういう会社を作ることが私の理想ですね。

現在の業界にはあまりこだわっていません。お客様のニーズを元に仕事があると思っているので、マーケットの変化に柔軟に対応していきます。ただ、ウチは工場を持っていることが強みの一つなので、工場を活かした事業を推進していくつもりです。

数値的には売上げを3年後に二倍、5年後には三倍にするのが目標です。自ら考えて行動することができる人材を育てていくことができれば、この目標は必ず実現可能だと思っています。

個人的には自分が圧倒的な成功を収め、その成功事例を伝えていきたいという想いがあります。そのため「人」に関する部分が私のテーマです。別会社として人材育成や採用支援をする会社も設立して、そちらの活動もしながら「伝える」仕事をしていきます。

人材・採用の会社だけでなく、これからもっと色んな会社を作っていきたいですね。なぜかと言うと、経営者をたくさん作りたいと思っているからです。ウチで働いている社員の中から自社の後継者も選びたいですし、別会社の経営者になれる人材が生まれるような会社にしていきたいんです。

新しい事業や会社を立ち上げていくために、全社員1人1時間年4回の個人面談を実施して、どんな仕事をしていきたいかヒアリングする機会を設けています。そこで会社のビジョンを話して本人の将来の希望を聞くことによって、社員が考えていることをより多く理解でき、また会社がやりたいことを理解してもらえるようになりました。

70名くらいの社員がいるため、1年先まで個人面談のスケジュールはビッシリ入ってしまっていますが、1人ひとりの意見を汲み取りながら成長し続ける会社を目指していきたいと思っています。


<インタビュー情報>
アサヒ・ドリーム・クリエイト株式会社
代表取締役 橋本 英雄
会社ホームページ https://www.pop-asahi.jp/

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